23歳から始めて、独立する直前まで、16~17 年間やっていました。最初は歌手の仕事だけやっていましたが、途中からは会社に勤めながら歌っていました。
たぶん好きだったと思いますが、本当に音楽が好きになったのは中学のときです。ちょっと恥ずかしい話なんですけど、昔、「ベルばら」ブームってあったの知ってますか?(*1972 年に連載スタートした池田理代子の漫画『ベルサイユのばら』のブーム。宝塚歌劇団で舞台化もされ、人気が社会現象に。)それで、中 1 のとき友達と「宝塚受けようか」みたいな話をしていて、歌の試験があるらしいということから、合唱部に入ったんです。その合唱部がおもしろくて、ものすごく一生懸命取り組んだんですね。そこで毎日毎日練習していたのが、本当に歌が好きになったきっかけです。
大学生のとき、友達が銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里」に連れて行ってくれました。そこで、ああ、シャンソンておもしろいなって思ったんです。卒業後、劇団四季で働いているときにシャンソンが歌いたいなと思い、会社の先輩でジャズを勉強している方に相談したら、師匠を紹介してくださったんです。小泉源兵衛さんという、永六輔さんなどの伴奏を担当していたピアニストの方で、そこに習いに行き出したのが 22 歳のとき。劇団四季に勤めながら、シャンソンバーのようなところで歌い始めたのが 23 歳。そのころから、大阪の巴里祭には何年かずっと出演して、山本リンダさん、佐々木功さん、淡谷のり子さん、高英男さんといった方々とよくご一緒していました。
―淡谷さん、高さんは、もうお亡くなりになった著名なシャンソン歌手ですよね。
昔、日本でシャンソンが流行った時期があるんですよね。私の父や母の時代で、大スターだった越路吹雪さんが売れていたころです。その文化が残っているんですよね。私もとにかく好きでしたから、ずいぶん一生懸命勉強しました。
そうです。多いときは週に 5~6 日。都内のいろんなお店に行きましたよ。赤坂、銀座、新宿、六本木…。一番多いころは 10 軒以上に出演していました。小さなバーで、お客さんが 10 人も入ればいっぱいの店もあれば、50~60 人くらいまで入れる店もありました。
やっぱり、私は合唱をやっていたので、日本語で歌うということが好きなんです。シャンソンは詞がすごくいいんですよ。歌詞がやっぱり魅力。イタリアのカンツォーネってありますよね。カンツォーネとシャンソンは隣り合わせで、シャンソンの人はカンツォーネも歌うんです。カンツォーネは恋愛系の歌が多くて、シャンソンは恋愛もあるんだけど、それだけじゃなく、裏に反戦のメッセージがあったり、故郷のことを歌っていたり。有名な「ラ・メール」なんて単純に海のことを歌った歌ですけど、ものすごく洒脱です。
ほとんど訳詞で歌います。自分で訳したものもあるし、訳詞をいただいてきたものもある。ポピュラーな「枯葉」くらいはフランス語で歌いますけど。
美輪明宏さんの「愛の讃歌」はすごく素敵な詞ですよ。この歌は、岩谷時子さんの訳が非常に有名ですよね。「♪あなたの燃える手で~私を抱きしめて~」という詞。でも、美輪さんの訳は本当にフランス語の歌詞に忠実で、「♪高く青い空が~落ちてきたとしても~海がとどろいて~押し寄せたとて~あなたがいる限り~私は恐れない~」というの。ちょっとドラマチックでしょう。あれは恋してないと歌えないですね(笑)。
ない。日本だけじゃないですか? おもしろいよね。あり得ないですよね。ただ、シャンソンにはスイングの曲も結構あって、それがジャズとして英語で歌われているのは何曲かあります。
32 歳のとき、大阪のシャンソンコンクールで優勝しました。それをきっかけにして、今度は教えるようになったんです、シャンソンを。読売文化センターや、松坂屋のカトレアサークルなどで教えていました。それがまた、教えるとこっちも余計うまくなるんです。
人に教えると、何でもうまくなりますよね。
歌は好きで、もちろんいまも好きなんですけど、ずっと歌の仕事ばかりやっていたいとも思っていなかったんです。職業は別のことでもいいかなって。29 歳で結婚したあと、ずっと歌ばかりも歌っていられないので、会社に勤めたんです。それが前職で、機械メーカーの社長秘書をやっていました。そこの社長には、ずいぶんいろいろと勉強させてもらいました。
社長秘書を 3 年ほどやったあと産休を取り、復帰後にマーケティング担当になりました。広告やカタログ制作、イベント、展示会などの担当ですね。その仕事をする中で、社長に「この本を読みなさい」「このセミナーに行ってきなさい」っていろいろ言われて。社長は神田昌典さんの実践会に入っていたんです。育休明けに戻ったら、社長の代理で私が実践会に参加することになって、私、神田さんのニュースレターも毎月読んでいたんですよ。そうしたら、読んでいるうちにおもしろくなって、最初は会社のお金でセミナーに行かせてもらっていましたが、そのうち自腹で行くようになったんですね。フォトリーディングの講座も、2002 年に自腹で行きました。そのころからビジネスがおもしろくなってきて、もう少し真剣にやろうかなと思い始めたんです。
講師の仕事を始めましたよね。これは歌手の仕事とすごく似ています。
そっくりですよ。同じような仕事をしているなっていつも思います。まず、両方とも声を使う仕事でしょう。「話す」ことと「歌う」ことはすごく似ています。間の取り方、声の抑揚…。それと、みんなの前で歌うことと、みんなの前で話すことは、両方とも「場をつかむ」ことが必要で、すごく共通点がある。
昔、歌を歌っていたときに、「急に歌がうまくなったね」と言われた時期がありました。オリコン元社長の小池聡行さんが書いた『右脳歌唱法』という本を読んだころで、そこにはこんなことが書いてあった。宇宙の気のようなものを自分の体に受けて、それを発信するように歌っている歌手はいい歌手だ。いくら歌が上手でも、そうじゃない歌手は大物になれないって。「そうか」と思いましたね。意識が自分の方に向いているとだめなんだと。音楽という美しいものは、すごく次元の高いところにある。それを自分の体を通して前に置いてあげる。29 か 30 歳のころにそれに気がついて、そういうふうに歌うように変えたんです。そうしたら、「すごくいいね」って言われるようになった。
神田さんも同じことを言ってたのね。たしか「魔法の文章講座」で、「高い次元の世界に『私は何を書くべきですか』と問うと、答えが降りてくる。それを書くだけなんだ」みたいなことをおっしゃっていた。それは、私にすごく響いたんですね。ちょっとスピリチュアルなんだけど、私が音楽で学んできたこととまったく同じことを、ビジネスでおっしゃっているなと思って。だから、すごく入りやすかったですよね。話すことも、文章を書くことも、全部歌で学んだことを応用している。おもしろいですよね。
私は、自分は媒介でしかないと思っているんです。自分の体や脳を通して、降りてきたものを前に出すだけ。そういうふうに思っていると、緊張しません。歌を教えていたころによく言われたんです。生徒さんに発表会の提案をすると、「先生、私すごく緊張します。どうしたらいいんでしょうか」って。私もそういう経験があったから分かりますが、それは意識が自分に向いているからなんですね。自分じゃない、もっと高いところに意識を持っていくと、緊張しないの。それは、いまの講師業にもすごく活かされています。表現して伝える、ということでは、歌も講師業も本当に同じです。
たぶん最初から感じていました。直感的に。前の会社のときから、「話がうまい」と言われていたんです。やっぱり、歌をやっていたから声がいいとよく言われて、会社でセミナーをやると司会をさせられたり、展示会だとアナウンスをやらされたりしていました。最初は何で自分が話せるのか気づいていなかったんだけど、独立するころにはもう分かっていたんです。「やっぱり、歌を歌っていたからできるんだな」っていうことが。
―後編に続く―