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塚原美樹さん【前編】

作成者: wisdom|2019/07/09

シャンソンは日本語の歌詞が魅力

―プロフィールを拝見すると、「元シャンソン歌手」というところにどうしても注目してしまいます。歌手として何年ぐらい活動されていたんですか?

23歳から始めて、独立する直前まで、16~17 年間やっていました。最初は歌手の仕事だけやっていましたが、途中からは会社に勤めながら歌っていました。

―子どものころから歌うことがお好きだったんですか?

たぶん好きだったと思いますが、本当に音楽が好きになったのは中学のときです。ちょっと恥ずかしい話なんですけど、昔、「ベルばら」ブームってあったの知ってますか?(*1972 年に連載スタートした池田理代子の漫画『ベルサイユのばら』のブーム。宝塚歌劇団で舞台化もされ、人気が社会現象に。)それで、中 1 のとき友達と「宝塚受けようか」みたいな話をしていて、歌の試験があるらしいということから、合唱部に入ったんです。その合唱部がおもしろくて、ものすごく一生懸命取り組んだんですね。そこで毎日毎日練習していたのが、本当に歌が好きになったきっかけです。

大学生のとき、友達が銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里」に連れて行ってくれました。そこで、ああ、シャンソンておもしろいなって思ったんです。卒業後、劇団四季で働いているときにシャンソンが歌いたいなと思い、会社の先輩でジャズを勉強している方に相談したら、師匠を紹介してくださったんです。小泉源兵衛さんという、永六輔さんなどの伴奏を担当していたピアニストの方で、そこに習いに行き出したのが 22 歳のとき。劇団四季に勤めながら、シャンソンバーのようなところで歌い始めたのが 23 歳。そのころから、大阪の巴里祭には何年かずっと出演して、山本リンダさん、佐々木功さん、淡谷のり子さん、高英男さんといった方々とよくご一緒していました。

―淡谷さん、高さんは、もうお亡くなりになった著名なシャンソン歌手ですよね。

昔、日本でシャンソンが流行った時期があるんですよね。私の父や母の時代で、大スターだった越路吹雪さんが売れていたころです。その文化が残っているんですよね。私もとにかく好きでしたから、ずいぶん一生懸命勉強しました。

―シャンソン歌手のお仕事というのは、お店に出て歌う、ということがメインになるんですか?

そうです。多いときは週に 5~6 日。都内のいろんなお店に行きましたよ。赤坂、銀座、新宿、六本木…。一番多いころは 10 軒以上に出演していました。小さなバーで、お客さんが 10 人も入ればいっぱいの店もあれば、50~60 人くらいまで入れる店もありました。

―シャンソンの何に一番魅力を感じられたんですか?

やっぱり、私は合唱をやっていたので、日本語で歌うということが好きなんです。シャンソンは詞がすごくいいんですよ。歌詞がやっぱり魅力。イタリアのカンツォーネってありますよね。カンツォーネとシャンソンは隣り合わせで、シャンソンの人はカンツォーネも歌うんです。カンツォーネは恋愛系の歌が多くて、シャンソンは恋愛もあるんだけど、それだけじゃなく、裏に反戦のメッセージがあったり、故郷のことを歌っていたり。有名な「ラ・メール」なんて単純に海のことを歌った歌ですけど、ものすごく洒脱です。

―ということは、フランスの音楽ながら、歌うときは日本語の訳詞で歌われることが多いと…

ほとんど訳詞で歌います。自分で訳したものもあるし、訳詞をいただいてきたものもある。ポピュラーな「枯葉」くらいはフランス語で歌いますけど。

美輪明宏さんの「愛の讃歌」はすごく素敵な詞ですよ。この歌は、岩谷時子さんの訳が非常に有名ですよね。「♪あなたの燃える手で~私を抱きしめて~」という詞。でも、美輪さんの訳は本当にフランス語の歌詞に忠実で、「♪高く青い空が~落ちてきたとしても~海がとどろいて~押し寄せたとて~あなたがいる限り~私は恐れない~」というの。ちょっとドラマチックでしょう。あれは恋してないと歌えないですね(笑)。

―素敵です! すみません、シャンソンについては本当に不勉強なんですが、ほかの国でも、そうやってシャンソンを自分の国の言葉に訳して歌うという文化はあるんでしょうか?

ない。日本だけじゃないですか? おもしろいよね。あり得ないですよね。ただ、シャンソンにはスイングの曲も結構あって、それがジャズとして英語で歌われているのは何曲かあります。

―塚原さんはその後、シャンソンコンクールで優勝もされたと伺っています。

32 歳のとき、大阪のシャンソンコンクールで優勝しました。それをきっかけにして、今度は教えるようになったんです、シャンソンを。読売文化センターや、松坂屋のカトレアサークルなどで教えていました。それがまた、教えるとこっちも余計うまくなるんです。

―そういうものなんですか?

人に教えると、何でもうまくなりますよね。

歌とビジネつの共通点

―それほど好きで長くやられていたシャンソンの世界から、講師やコンサルティングというビジネスの世界に転身されたのは、どんなきっかけだったんですか?

歌は好きで、もちろんいまも好きなんですけど、ずっと歌の仕事ばかりやっていたいとも思っていなかったんです。職業は別のことでもいいかなって。29 歳で結婚したあと、ずっと歌ばかりも歌っていられないので、会社に勤めたんです。それが前職で、機械メーカーの社長秘書をやっていました。そこの社長には、ずいぶんいろいろと勉強させてもらいました。

社長秘書を 3 年ほどやったあと産休を取り、復帰後にマーケティング担当になりました。広告やカタログ制作、イベント、展示会などの担当ですね。その仕事をする中で、社長に「この本を読みなさい」「このセミナーに行ってきなさい」っていろいろ言われて。社長は神田昌典さんの実践会に入っていたんです。育休明けに戻ったら、社長の代理で私が実践会に参加することになって、私、神田さんのニュースレターも毎月読んでいたんですよ。そうしたら、読んでいるうちにおもしろくなって、最初は会社のお金でセミナーに行かせてもらっていましたが、そのうち自腹で行くようになったんですね。フォトリーディングの講座も、2002 年に自腹で行きました。そのころからビジネスがおもしろくなってきて、もう少し真剣にやろうかなと思い始めたんです。

―歌手の世界からビジネスの世界というのは、外から見るとまったく違う世界に移られたような印象があります。ご自身の中では、葛藤や苦労はなかったのでしょうか?

講師の仕事を始めましたよね。これは歌手の仕事とすごく似ています。

―え、そうなんですか?

そっくりですよ。同じような仕事をしているなっていつも思います。まず、両方とも声を使う仕事でしょう。「話す」ことと「歌う」ことはすごく似ています。間の取り方、声の抑揚…。それと、みんなの前で歌うことと、みんなの前で話すことは、両方とも「場をつかむ」ことが必要で、すごく共通点がある。

昔、歌を歌っていたときに、「急に歌がうまくなったね」と言われた時期がありました。オリコン元社長の小池聡行さんが書いた『右脳歌唱法』という本を読んだころで、そこにはこんなことが書いてあった。宇宙の気のようなものを自分の体に受けて、それを発信するように歌っている歌手はいい歌手だ。いくら歌が上手でも、そうじゃない歌手は大物になれないって。「そうか」と思いましたね。意識が自分の方に向いているとだめなんだと。音楽という美しいものは、すごく次元の高いところにある。それを自分の体を通して前に置いてあげる。29 か 30 歳のころにそれに気がついて、そういうふうに歌うように変えたんです。そうしたら、「すごくいいね」って言われるようになった。

神田さんも同じことを言ってたのね。たしか「魔法の文章講座」で、「高い次元の世界に『私は何を書くべきですか』と問うと、答えが降りてくる。それを書くだけなんだ」みたいなことをおっしゃっていた。それは、私にすごく響いたんですね。ちょっとスピリチュアルなんだけど、私が音楽で学んできたこととまったく同じことを、ビジネスでおっしゃっているなと思って。だから、すごく入りやすかったですよね。話すことも、文章を書くことも、全部歌で学んだことを応用している。おもしろいですよね。

私は、自分は媒介でしかないと思っているんです。自分の体や脳を通して、降りてきたものを前に出すだけ。そういうふうに思っていると、緊張しません。歌を教えていたころによく言われたんです。生徒さんに発表会の提案をすると、「先生、私すごく緊張します。どうしたらいいんでしょうか」って。私もそういう経験があったから分かりますが、それは意識が自分に向いているからなんですね。自分じゃない、もっと高いところに意識を持っていくと、緊張しないの。それは、いまの講師業にもすごく活かされています。表現して伝える、ということでは、歌も講師業も本当に同じです。

―そうなんですね。その 2 つが共通しているというのは、わりとすぐ感じられたことですか?

たぶん最初から感じていました。直感的に。前の会社のときから、「話がうまい」と言われていたんです。やっぱり、歌をやっていたから声がいいとよく言われて、会社でセミナーをやると司会をさせられたり、展示会だとアナウンスをやらされたりしていました。最初は何で自分が話せるのか気づいていなかったんだけど、独立するころにはもう分かっていたんです。「やっぱり、歌を歌っていたからできるんだな」っていうことが。

―後編に続く―